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東京地方裁判所 平成9年(ワ)14126号 判決 1999年9月29日

原告

峪口龍夫

被告

羽山賢一

ほか一名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告らは、原告に対し、金七七二万六〇七七円及び内金七〇二万六〇七七円に対する平成九年七月一八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、走行してきた自動車が、停止していた自動車に追突した交通事故について、追突された自動車の運転者が、追突した自動車の運転者と示談契約を締結したものの、その後、症状が悪化したとして、その運転者と追突車両の所有者に対し、示談契約締結時以降の損害賠償を求めた事案である。

一  前提となる事実(証拠を掲げない事実は争いがない。)

1  事故の発生

次の交通事故(以下「本件事故」という。)が発生した。

(一) 発生日時 平成六年一〇月八日午後一時三五分ころ

(二) 事故現場 和歌山県新宮市三輪崎二一九五番地一先の国道四二号線上

(三) 被害車両 原告が運転していた普通乗用自動車(和歌山五七の三五二七)

(四) 加害車両 被告が羽山賢一が運転していた普通乗用自動車(三五八ろ九六八七)

(五) 事故態様 被害車両が、事故現場の新宮市方面に向かう車線の左側端に一時停止していたところ、加害車両が追突した。

2  責任原因

(一) 被告羽山賢一(以下「被告賢一」という。)は、前方注視義務を怠り、漫然と進行して本件事故を発生させた過失がある。

(二) 被告羽山舜三(以下「被告舜三」という。)は、加害車両を所有し、自己のために運行の用に供していた。

3  原告の受傷と治療経過

原告は、本件事故直後はあまり症状はなかったが、次第に頸部痛、腰痛が生じたため、平成六年一〇月一一日に木下外科医院で診察治療を受け、外傷性頸部症候群、腰部捻挫の診断を受けた。和歌山県新宮市内の木下外科医院には、同月二〇日までに九日通院した。同月一九日からは、中瀬古整形外科医院にも通院するようになり、頸部捻挫、腰部捻挫、頸性頭痛の診断を受け、翌二〇日も通院した後、同月二二日に通院治療を受け、そのまま入院した。合計二四日間入院して同年一一月一四日に退院し、翌一五日から平成七年一月一一日までの間に四〇日通院治療を受けた。同日からは、新宮市内の山口整形外科温泉クリニックに通院し、腰部椎間板症、頸椎椎間板損傷の診断を受けた。この病院には同年一〇月四日までに一九六日通院し、同年一〇月一二日に、同年一〇月四日をもって症状固定の診断を受けた。この時点では、寝ていて起きる際には横向きでないと起きることができない、立っていると右足がしびれてくる、くしゃみをすると腰にひびく、長く歩くと腰痛が生じて歩行しにくくなる、冷えたり天気が悪化すると症状が増悪するなどの症状が残存した。原告は、症状固定後も山口整形外科温泉クリニックでの通院治療を続け、同年一二月一四日までの間にさらに四〇日通院した。なお、山口整形外科温泉クリニックでの治療を受けている間の平成七年五月一〇日から同年一〇月四日までの間に、和田整骨院にも四一日通院して施術を受けた。

原告は、右の後遺障害につき、自動車損害賠償保障法施行令二条別表の第一四級一〇号に該当する旨の事前認定を受けた(以上、甲二の2、五、七の1、九、一二、乙二、三~六、一二、証人寒川敬可、原告本人)。

4  示談契約の成立と履行

原告は、平成七年一二月一四日、被告賢一の代理人である東京海上火災保険株式会社(任意保険締結会社)田辺損害サービスセンター交通事故賠償主任寒川敬可との交渉の結果、被告賢一との間で、次の内容の示談契約を締結し(争いがない、以下「本件示談契約」という。)、これに基づき、これまでに、被告から合計六二四万五三四一円の支払を受けた(甲二の1・2、弁論の全趣旨)。

(一) 被告賢一は、原告に対し、平成七年一〇月四日までの治療費一九一万二六四七円を負担する。

(二) 被告賢一は、原告に対し、通院費、入院雑費、休業損害、慰謝料及び後遺障害一四級相当額を含め、その他一切の損害賠償金として既払金を除き二四〇万円を支払う。

(三) 原告に、本件示談に包含されない重大な後遺障害が生じた場合には、原告は被告賢一の自賠責保険(東京海上)に請求し、その受領額を限度として賠償する。

(四) 原告と被告賢一は、上記各条項により一切解決したことを確認する。

5  本件示談契約成立後の治療経過

原告は、本件示談契約成立後、平成七年一二月中に五日、平成八年一月と二月に各二日ずつ山口整形外科温泉クリニックで通院治療を受けた後、同病院の紹介により、同年二月二七日に東京都リハビリテーション病院で診察を受け、同年三月一日から同年四月二〇日まで入院治療を受けた。その後、同月二二日に通院した後、同年五月一四日に再び入院し、同月二〇日に髄核摘出術の手術を受けた。そして、同年七月一三日に退院し、同年八月に二日通院した後、同年一〇月四日、右足部にしびれ感及び知覚過敏、右坐骨神経痛が残存して症状が固定したとの診断を受けた。

原告は、この後遺障害の診断に基づき、後遺障害認定等級に対する異議申立てをしたが、既に認定された第一四級一〇号で変更はないとの判断を受けた(以上、甲六、九、七の1~3、一二、乙七、一二、原告本人)。

二  争点

1  示談契約の内容及び有効性

原告は、本件示談契約の成立を自認しているものの、次のとおり、その内容の合理的解釈、詐欺による取消し、錯誤を主張し、本件示談契約締結後の損害の請求は認められると主張し、被告らは、それは有効に成立したもので、その内容から、本件示談契約後の治療費等を求める原告の請求は認められないと主張して争っている。

それらの主張の内容は次のとおりである。

(一) 原告の主張

(1) 本件示談契約の内容の合理的解釈

原告は、示談締結後、症状が悪化し、根本的な治療手段として、髄核摘出手術を受けたのであって、この原因はすべて本件事故に起因している。症状の悪化と手術は、本件示談契約締結当時において、まったく予想することができなかったものであるから、本件示談契約における一切解決したとの内容(損害賠償請求権の放棄)は、このような症状悪化に伴う損害までを含むものではない。

(2) 詐欺による取消

寒川敬可は、原告に対し、保険による治療の支払は一年が限度であり、それ以上は支払えないことになっており、将来症状が悪化した場合には、改めて損害賠償をする旨の説明をした。その結果、原告は、保険では一年以上の治療費等の支払はできないと誤信して本件示談契約を締結した。

このように、原告は、寒川敬可の欺罔行為によって本件示談契約を締結したのであるから、本件の訴状送達をもって、詐欺を理由に原告の本件示談契約締結の意志表示を取り消す。

(3) 本件示談契約の目的に関する錯誤

原告は、寒川敬可の説明により、本件示談契約中の「原告に、本件示談に包含されない重大な後遺障害が生じた場合には、原告は被告賢一の自賠責保険(東京海上)に請求し、その受領額を限度として賠償する。」との内容について、示談後に症状が悪化した場合には、被告賢一に対し、増悪した分に対応する治療費等の損害賠償を請求することができると誤信して本件示談契約締結の意思表示をした。

したがって、原告の意志表示は錯誤に基づくものであり無効である。

(4) 本件示談契約の前提となる事項に関する錯誤(動機の錯誤)

原告は、いまだ治療を継続する必要性があったのに、寒川敬可の説明により、保険では一年以上の治療費等の支払はできないと誤信して本件示談契約を締結した。原告は、この誤信がなければ本件示談契約を締結することはなかったのであって、この動機は、寒川敬可に対して再三にわたり明示的に表示されていたのであるから、意志表示の内容となっていた。

したがって、原告の本件示談契約締結の意思表示は、要素の錯誤により無効である。

(二) 被告らの主張

寒川敬可は、原告と数度にわたって面談して症状固定の意味内容を繰り返し説明した上、本件示談契約締結の際には、その内容を十分に説明した。原告も、自らに腰椎椎間板ヘルニアが存在することを認識し、これに納得した上で本件示談契約を締結したものであるから、症状の悪化が予想できなかったとはいえないし、詐欺や錯誤の主張はいずれも理由がない。

2  原告の残損害額

原告主張の損害額(平成七年一〇月四日以降の損害)

(一) 治療費 七四万九一〇七円

(二) 入院雑費 一四万五六〇〇円

(三) 入通院慰謝料 二〇〇万〇〇〇〇円

(四) 休業損害 三四一万七二六六円

(五) 逸失利益 七一万四一〇四円

(六) 弁護士費用 七〇万〇〇〇〇円

第三争点に対する判断

一  本件示談契約締結の経緯及びその後の事情について

1  前提となる事実、証拠(甲七の1・2、一二、一四、乙二、七、一〇~一二、証人寒川敬可[一部]、原告本人[一部]及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告は、本件事故の三日後から木下外科医院で診察治療を受け、事故から二週間後に中瀬古整形外科医院に入院した。東京海上火災保険株式会社の嘱託社員で、田辺損害サービスセンター交通事故賠償主任であった寒川敬可は、受領した事故報告により、原告が木下外科医院に通院していると認識していた。ところが、中瀬古整形外科医院から治療費支払を確認するための連絡を受け、原告が同医院に入院していることを知った。そこで、同医院を訪問して初めて原告に会い、保険による損害賠償金の支払など、保険の仕組みについて説明した。また、治療費が高額になるため、健康保険による診療を希望したが、それには応じてもらえなかった。

(2) 原告は、平成六年一一月一四日に中瀬古整形外科医院を退院したので、寒川敬可は、その後まもなく原告の自宅を訪問し、身体の具合を尋ねるとともに休業補償等の書類の受渡しをした。

(3) 原告は、平成七年一月一一日まで中瀬古整形外科医院に通院して治療を受けたが、同日からは、設備等が良いとの理由で山口整形外科温泉クリニックに通院するようになった。寒川敬可は、原告と何度かは電話でやり取りをしていたが、原告の治療が長引いているので、寒川敬可は、同年三月か四月ころ、原告と面談し、身体の状況を尋ねた。原告は、依然具合が悪いとのことであったので、寒川敬可は、原告から同意書をもらい、その症状について尋ねようと、同年五月ころ、山口整形外科温泉クリニックの山口道夫医師と面談した。

寒川敬可は、中瀬古整形外科医院の診断が、頸部捻挫、腰部捻挫であったのに、山口整形外科温泉クリニックでの診断が、腰部椎間板症、頸椎椎間板損傷となっていたので、自らがヘルニアを患った経験があったことから、これはヘルニアで加齢現象ではないかと山口医師に尋ねた。原告には、X線検査で第四・第五腰椎椎間板の不安定性が、MRI検査で第四・第五腰椎椎間板と第五腰椎・第一仙椎椎間板の変性及び突出が認められており、右下肢の筋萎縮及び筋力の低下、右足のしびれ感等の症状が、これらの画像所見に一致していた。山口医師は、たしかに、体質や年令による椎間板の変性が存在していた可能性はあるが、本件事故が引き金になって発症したものと考える余地はあるので、一年くらいは治療費を負担してあげてもよいのではないかとの趣旨の回答をした。

寒川敬可は、当初、本件事故から半年ほどで示談できるかとも考えていたが、山口医師の見解を参考にして上司と相談し、本件事故から一年間は、治療費を負担することはやむを得ないとの結論に達した。

(4) 寒川敬可は、平成七年八月ころ、原告に対し、治癒すればもっともよいけれども症状が残存する場合があり、これ以上治療を続けても飛躍的に良くならないと判断した時期に、医師は症状固定との診断をすることを説明し、山口医師から症状固定で後遺障害診断書を作成するとの話が出ていないかと尋ねたが、まだ、そのような話はないとのことであった。

(5) 原告は、勤務先にも電話番で復帰し、平成七年九月ころの症状は苦痛なほどには悪くない状態になっていた。

寒川敬可は、その後、原告に対し、原告の症状は椎間板ヘルニアによるものであること、自分もそれに罹患した経験があり、それは経年性の変化によって生じること、保険会社の方で一年以上治療費を負担するのは無理であること、症状固定の判断がなされたら、治療費も休業損害も支払えないが、自賠責保険で後遺障害の認定がなされたら、それに関する支払がなされることなどを説明し、一応平成七年九月までの治療とし、その後、自賠責調査事務所で後遺障害があるか否かの判断をしてもらって示談しましょうかと持ちかけた。原告は、一年以上治療費を負担してもらうことができないことに加え、同年九月二〇日に退職して生活費のこともあったことから、不満はあったものの、その方向で了解することにし、同年九月末ころに、同年一〇月五日ころまで治療が続くこと、その後、山口医師が同月一二日か一三日ころに後遺障害診断書を作成することを寒川敬可に連絡した。

(6) 山口医師は、平成七年一〇月四日をもって原告の症状は固定した旨の後遺障害診断書を作成し、寒川敬可は、同年一〇月中旬ころに原告からこれを受領した。そして、これに基づき、自動車保険料率算定会の調査事務所において後遺障害の事前認定手続をとったところ、同年一二月初旬ころ、自賠法施行令二条別表の後遺障害等級第一四級一〇号に該当する旨の認定を得た。

そこで、寒川敬可は資料を整え、同年一二月七日ころに原告と面談し、損害費目、損害額、既払額、差引支払額などが記載された「自動車対人賠償額のお支払いについて」と題する書面と示談書の草案を交付した。原告は、これまでにも、これ以上症状が悪化した場合の不安を述べていたので、示談書の草案には、本件示談契約に包含されない重大な後遺症が生じた場合は、原告は、自賠責保険に請求し、その受領額を限度として賠償する旨の条項が含まれており、寒川敬可は、後遺障害が、認定された第一四級一〇号よりも悪化し、それ以上の後遺障害の認定がなされときは、今回の後遺障害の慰謝料と新たに認定された後遺障害の慰謝料との差額が支払われることを説明した。

(7) このような経過を辿り、平成七年一二月四日、寒川敬可が代行し、被告賢一と原告との間で本件示談契約が成立した。

(8) 原告は、引き続いて山口整形外科温泉クリニックに通院したが、その治療費は、自ら支払った。そして、平成八年になると、一月と二月に各二日ずつ通院する程度になったが、急な坂道を駆け下りる地元の祭りに参加するなど無理をして症状が悪化し、山口整形外科温泉クリニックの紹介により東京都リハビリテーション病院に転院して入院治療を受けた後、髄核摘出手術を受けた。これにより症状はかなり緩和された。

原告は、平成八年七月一三日に東京都リハビリテーション病院を退院し、その際に、後遺障害診断書を作成してもらい、同月二二日、東京海上火災保険株式会社和歌山損害サービス課に対し、自動車損害賠償責任保険支払請求書兼支払指図書と印鑑証明書を添えて提出した。ところが、後遺障害診断書に症状固定日の記載がない上、不足書類があったため、右和歌山損害サービス課の指示に従い、後遺障害診断書に症状固定日を作成してもらうとともに、それに合わせてその作成日も訂正してもらい、異議申立書を作成した上で、診療報酬明細書などとともに書類の追完をした。しかし、異議申立ての結果は、既に認定された第一四級一〇号で変更はないというものであった。原告は、その間、高額医療費の還付請求を行ってその支払を受けた。

2  原告は、(6)の本件示談契約の条項に関する説明につき、将来症状が悪化した場合には、改めて損害賠償をする旨の説明をしたと主張する。しかし、原告本人も、将来症状が悪化したときは、東京海上火災保険株式会社に用紙を請求すれば、その分は見ると説明したなどと供述するにとどまり、後遺障害が悪化した場合、自賠責の認定などの条件なしに、かつ、治療費などを支払うとまで説明したのか否か定かでない。また、原告本人の右供述内容は、本件示談契約の表現とも矛盾しており、一年以上は治療費等の賠償をすることはできないとの説明にも必ずしも合致しない。したがって、原告本人がどのように理解していたかはともかく、寒川敬可がそのように説明した旨の右供述内容は信用できない。

その他、甲一二、証人寒川敬可及び原告本人の供述中、右認定に反する部分は、前提となる事実及び前掲各証拠に照らし、ただちには採用できない。

二  本件示談契約の内容及び効力について

1  前提となる事実及び一で認定した事実に基づき、原告の主張について検討する。

(一) 本件示談契約の内容の合理的解釈

本件示談契約締結の経過から判断できるとおり、原告は、本件示談締結当時把握できなかった症状が露見したわけではなく、自らの病名を把握し、本件示談契約締結当時、それにより、既に後遺障害の認定がなされていたこと、本件示談契約締結後は、その症状が悪化したにすぎないこと、原告は、本件示談契約締結当時も、その後の症状の悪化について不安を述べており、その結果、本件示談契約において、契約中に包含されない重大な後遺障害が生じた場合に自賠責保険からの支払を限度として賠償される旨の、後遺障害の悪化に備えた条項が含まれたことを総合すれば、本件示談契約後の症状の悪化と手術をまったく予想することができなかったということはできない。

したがって、本件示談契約は、原告に生じたその締結後の症状悪化を含まないとの主張は理由がない。

(二) 詐欺による取消

たしかに、寒川敬可は、一年以上の治療費の支払はできない旨を説明しているが、症状固定の説明や椎間板ヘルニアが経年性のものであるとの説明などと併せて考えれば、本件について、損害賠償の支払をどこまでするかについての任意保険会社の対応を説明したのは明らかである。また、症状が悪化した場合に、無条件で、後遺障害以外の損害の賠償も改めて行う旨の説明もしていないのであるから、寒川敬可に欺罔行為があったとはいえない。

(三) 本件示談契約の目的に関する錯誤

本件示談契約の内容に加え、原告は、本件示談契約締結後の治療においては、健康保険による治療の要望に応じなかったにもかかわらず、本件示談契約締結後は、高額医療費の還付請求を行っていること、東京都リハビリテーション病院の退院時にいったん後遺障害診断書の作成をしてもらい、その支払手続をしていることなどの事情に照らすと、原告が、示談後に症状が悪化した場合に、増悪した分に対応する治療費等の損害賠償請求をすることができると誤信していたことには疑問がある。いずれにしても、これは本件示談契約の目的に関する錯誤であるから、民法六九六条の適用または類推適用により、示談契約の無効を主張することはできない。

(四) 本件示談契約の前提となる事項に関する錯誤(動機の錯誤)

(1) たしかに、原告は、保険会社としては一年以上の治療費の支払はできないと理解していたものであるが、現に、本件示談契約において、後遺障害が悪化した場合、自賠責からの支払を限度で支払う旨の条項が設けられていることからすれば、右は、あくまで、本件における保険会社の対応として、それ以上の治療期間について支払に応じられないものと理解していたというべきであって、一般に保険制度が一年以上の治療費を支払えない制度であると理解していたとはいえないというべきである。

また、原告が、一般に保険制度がそのようなものであると理解していることを原告が明示的に表示していたともいえない。

したがって、この点に関する原告の主張も理由がない。

(2) なお、原告は、先のとおり、症状の悪化と手術は、本件示談契約締結当時において、まったく予想することができなかったと主張しているので、そのために、全損害額の正確な把握を誤って本件示談契約を締結した旨の前提事実に関する錯誤(動機の錯誤)も主張していると解することもできないではないので、この点についても、検討しておく。

原告が本件において請求している損害額から、弁護士費用と逸失利益(原告が請求する逸失利益は、第一四級の後遺障害を前提にするものと理解することができるが、この後遺障害は、本件示談契約時において、すでに損害算定の前提となっていた。)を差し引くと、六三一万一九七三円となる。仮に、これがそのまま認定されるとすると(ただし、本件示談契約後から、平成八年一〇月四日の症状固定時までの入通院の経過に照らすと、慰謝料はやや高額であると考えられるし、症状が悪化する前に祭りに参加したり、手術後は良好な経過を辿っていることからすると、休業損害もやや高いと考えられる。)、既払金との合計金額は、一二五五万七三一四円となる。しかし、椎間板の変性が存在していた可能性はあるが、本件事故が引き金になって発症したものと考える余地があるとの山口医師の見解に加え(乙八によれば、東京メディカルサービス医療部長医師佐藤雅史も素因の影響はあるとの見解を示している。)、原告は、本件示談契約後に無理をして症状を悪化させていること、東京都リハビリテーション病院での症状固定の診断が、本件事故後約二年を経過した時期であることなどの事情を併せて考えると、そもそも、症状の悪化が本件事故と相当因果関係があることについて疑義がないではないが、仮に、相当因果関係があるとしても、三割程度の素因あるいは寄与度減額がなされる可能性も十分考えられる。そうすると、右の一二五五万七三一四円を前提にしても、損害額は、その七割で約八八〇万円程度になり、右に述べた慰謝料及び休業損害の算定によっては、もっと低い金額になることも考えられる。そして、本件示談契約が、本件事故から一年以上を経過した時点で締結されていることに加え、示談による早期の紛争解決との趣旨を併せて考えると、原告が、本件示談契約で合意した金額は、適正さを欠く金額とはいえないというべきである。

したがって、仮に、原告が先のとおりの趣旨の錯誤を主張していると解するとしても、既に検討したとおり、原告は、そもそも、症状の悪化と手術について、本件示談契約締結当時において、まったく予想することができなかったとまではいえないし、そのために、全損害額の正確な把握を誤って本件示談契約を締結したともいえない。

2  以上によれば、原告の後遺障害について、自賠責での等級認定に変更がない限り、原告の本件事故による損害賠償請求権は、本件示談契約の成立及び履行によって、既に放棄されたというべきである。

したがって、原告は、被告賢一に対し、これを請求することはできない。

三  本件示談契約の被告舜三に対する拘束力について

本件示談契約は、被告賢一と原告との間に成立しているものであるが、被告らは、被告舜三も当然に示談契約の効果が及ぶことを前提に主張しているものと理解することができ、原告も、そのことは当然の前提としていると理解することができる。しかし、念のため、この点について付言する。

原告は、任意保険会社の担当者と示談交渉をしていたものであり、かつ、被告賢一と被告舜三は親子である上(乙九)、加害車両の運転者と所有者であることを併せて考えると、被告賢一はもちろん、原告も、損害賠償責任を負担する相手方との間の紛争の一挙的解決のために、不真正連帯債務を負う一方債務者との間で本件示談契約を締結する意思であったというべきである。

したがって、こうした当事者の合理的意思に照らすと、本件示談契約の効力(合意した一定額以上の損害賠償債務は存在しないとの意味で、免除あるいはそれに類する効力)は、不真正連帯債務を負担する被告舜三にも及ぶ(絶対効力を有する)と解するのが相当である。

第四結論

以上によれば、その余の争点を判断するまでもなく、原告の請求は理由がない。

(裁判官 山崎秀尚)

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